年の功の主張☆彡

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日々思ったことや感じたことを綴ります

ガン体験記を書いてみた 

初めてのガンから2回の再発を経験した手記です。現在苦しみを抱えた人の役に立てばという思いで書きました。現在闘病中の人、病気のご家族をお世話している人、健康に興味がある人など、こんな経過をたどり今でも元気に生きている人間もいるということを知って頂ければ励みになるかと思います。

 

 

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現代人は密かに病んでいる

世の中には聞いたこともない病名、何万人に一人しかいない病気など沢山の病気があり、今でも多くの人たちが病気と闘っています。また外見上健康そうでも、実は健康を損なったために後遺症を抱えながら頑張って生きている人たちも沢山存在しています。

 

今では早期発見さえできれば上手く病気と付き合っていけるガンです。ガンは一度発症してたとえ5年10年生存し病院で治療が必要無くなっても完治とはいわず、死ぬまで上手く付き合っていくものなのです。私も女性特有の「乳ガン」と上手く付き合っています。

 

ガン発覚

当時私は33歳、当時公団と言われていた今で言うUR住宅に当選し、近隣はビオトープ計画を取り入れた自然環境抜群の土地へ引っ越しが決まり、小学2年生と5年生の娘たちは新しい学校へ行くことを楽しみにしていました。

 

ある日、お風呂から上がり何気なく右胸に手を当てると違和感を感じたのです。乳ガンは蒟蒻のなかに小豆を入れて触れた感触があると言いますが、そのままの表現が一番ピッタリとくるような感触でした。本当に上手く表現してると思います。

 

 

 

引っ越し先には日赤病院があるので早速次の日見てもらいに、電車とバスを乗り継いで行ったのです。その日午前中はエコー検査や生研など検査にかかり、帰宅できたのは夕方16時過ぎでした。1週間後の診察の結果を聞きに病院へ行き診察室外の待合室へと入りました。まだ前の人の診察が終わってなく先生と女性の会話が聞こえてきました。その女性もガンの検査結果を聞きに来たようで「陽性」という言葉だけが私の耳に残り、きっと自分も大丈夫だと思っていたのですが、結果は乳ガンのステージ2が1カ所、ステージ1が2カ所あるから、年齢もまだ若いしガン家系だから年明け早々に全摘手術をしたほうがいいと勧められたのです。実はこの日家路までどうやって帰ったのか全く覚えていないのですが、帰宅したとき元夫と子どもたちがダイニングにいて、ガンだったと話したのだけは覚えています。

おそらく過度のストレスから脳が逃避を起こしていたのでしょう。

 

そして引っ越し当日までの半月記憶がすっぽりと抜け落ち、12月24日公団1階の新居への引っ越しに元夫は運送屋を使わず、子ども達は柔道をしているから力があると言って小学校2年生と5年生の女の子と命の危機がある病を抱えた私に段ボール運びをさせるという無神経さに腹が立ち、引っ越し当日段ボールに囲まれたリビングでマクドナルドのハンバーガーとポテトを広げ家族4人で祝ったなんともいえない悲惨なクリスマス、それだけは覚えているのですが翌年病室に入るまでの記憶がまた消えているのです。

後日談として、私が入院当日どうやって病院へ行ったのか覚えてないから、自分で自分の記憶を消したんだろうと元夫へ話したとき、馬鹿丁寧に説明しだし、このときから元夫への不信感を持ちはじめたのです。

 

入院直後は忙しい

入院翌日、手術を担当する医師たちの挨拶に始まり、看護婦長師さんと、これから1ヶ月お世話をしてくれる看護師さんたちの挨拶、麻酔科担当者の挨拶と続き、尿検査、レントゲン検査、再度のCT検査、骨シンチ検査、肺活量検査、手術後の呼吸を鍛えるための訓練などなど、入院って退屈だと思っていたらじっとする暇もなく夕飯時間が来るとクタクタになってしまいました。

そして担当医の先生は勤務時間外の19~21時まで時間を取ってくれて、私の右胸の状態と手術の内容説明、術後の治療計画、最悪のケース、、退院後の過ごし方、右との使い方などについて元夫と私にしっかりと話してくれたのです、。胸全摘でリンパ節の転移も疑われるからリンパ節も切除、そして切除をすると右腕はリンパ浮腫を起こしやすくなるからハドマーというリハビリ機器によるマッサージとリハビリの先生よる右手のマッサージを早い段階で受けてもらうと説明がありました。ガンって手術すれば良くなると思っていたら、実は手術してからが本当は一番大変だということをこの時初めて知ったのでした。

 

辛い過去と向かいあうとこうなった

この書い手記を書くと具合が悪くなります。もしかすると人は苦しく忘れてしまいたい過去を起こす作業はマイナスエネルギーが働くのではないかということです。脳が記憶障害を起こすほどの辛い過去を思い出すことで、体が拒絶反応を起こしてしまっていたようです。さて自己免疫を守るために違うブログを書いていましたが復活できました。

 

手術後ICUでは

手術が終わるとICUという集中治療室に入るのですが、麻酔から覚めると手術したはずの右胸は全く痛みは感じず、それ以上に背中に鉄板を敷いている違和感と右手が重くてたまりませんでした。一番なにが辛いかと言うと、口に酸素マスクをしていたため凄く喉が乾いていたのですが、朝先生の了解があるまでは飲めないと言われ、9時間近く喉の渇きを我慢していたことでした。

手術後は点滴のチューブ、浸出液が体内に残らないようにチューブを使って体の外に排出したり、尿道からチューブを入れて排尿し、術後食事が取れず痛み止めが服用できないので、チューブから痛みどめを入れたり、体中チューブだらけで寝返りを打つとチューブが外れやしないかとても心配したものです。

朝5時を過ぎて、あまりの口のなかのパサつきに我慢できず、看護師さんに水を飲んでもいいかと尋ねると、一晩異常がなかったので口を湿らす程度なら大丈夫ということで、術前から24時間以上経ってやっと吸い飲みを使い水分を口にできました。あの時の口にした水の感触は今でもしっかり覚えています。

 

ICUを出れたのは、8時を過ぎていたように思います。これで解放されたという安堵感は半端ではなかったです。入院した初日にいた大部屋に戻りお昼がくると、部屋の皆さんのご飯が運ばれてくるのですが、ブドウ糖が入っている点滴のおかげで全くお腹は空きません。

 

大丈夫なのは2週間まで

さっそく歩行練習と腕のリハビリメニューが始まりました。排尿のチューブは直ぐ外してもらえるのですが、洗面やトイレに行くときは片手に点滴の棒を持ち、浸出液のチューブ付きポシェットを肩にかけ、背中にくっついた痛み止めの瓶つきチューブとともに歩いていく、お昼ならしっかり確認してトイレへ行くのですが、夜間は頭がもうろうとしているため、浸出液のチューブ付きバッグをベッドの柵に引っかけてしまい、よくナースコールを鳴らしたものでした。次に外れたのが背中に張り付いた痛み止めチューブでした。おそらく3日目だったと記憶しています。

 

2日目のお昼だったでしょうか食事が始まったのですが、。重湯と味を薄めたようなオレンジジュース、離乳食のオレンジジュースのイメージだとわかると思いますが、両方紙コップに入っていて、オレンジジュースは美味しいとはいえませんが、取りあえずこれしか摂取できないので飲み干しましたが、さすがに重湯だけは絶句するほど不味くて全然飲めませんでした。そこからは3分がゆと味噌汁の具なし、普通のおかゆと消化の良いおかず少々と少しずつ普通食に変わっていくのです。

 

入院していると食べることしか楽しみがなく、毎食の食事が本当に楽しみで、当時専業主婦をやっていた私だったので、入院生活は上げ膳据え膳、洗濯は家族がしてくれる、子どもの面倒はみなくていい、病気を除けば極楽でした。

しかし、極楽気分を味わえたのも2週間だけで、それから辛い抗癌剤治療が始まるのです。抗癌剤治療をするにあたり脱毛でベットが髪の毛だらけになると精神的ショックが大きいと思い、看護師さんと相談して1日外出の許可を得て病院のすぐそばにある美容室でロングヘアーの髪をバッサリ切りました。

 

準備万端治療にあたり心と体の準備を整え、抗がん剤の副作用も人によりけりだと看護師さんから話を聞いていたのですが、あまりの副作用に死んだほうがましだと思うような地獄の苦しみを味わうことになるのでした。

 

続く